

吉野さんの記事ッス。
http://news.finance.yahoo.co.jp/detail/20100304-00002904-jbpress-column
農業の後継者不足は深刻だ。農家に生まれながら、故郷から遠く離れた都会で農業とは別の仕事を選ぶ若者が少なくない。ずっと農業を身近に育った彼らの、農業に寄せる思いはさまざま。だが、ひょんなことをきっかけに地元に戻って農業に就くことを決める若者もいる。
「ひょんなこと」は意外にも都会のど真ん中に転がっていた。
「彼らに出会ったせいで、田舎に戻って農業をすることになりました」。そう笑顔で話す30歳、順風満帆なベンチャー企業社長の職を辞しても、地元に戻り農業後継者になろうと思わせた「ひょんなこと」とは――。(文中敬称略)
*** 「継がなくてごめんなさい」のセガレたち ***
2009年1月の午後。吉野敏充は、妻と2人でのんびり買い物をしながら東京・表参道をぶらついていた。その時、偶然、同世代の若者たち7~8人が鮮度の良さそうな野菜や果物を青空の下で販売しているのに出くわした。
2人の目を引いたのは、彼らの格好だった。背中に水色の文字で「倅」と大きくプリントされたグレーのツナギと、白地に水色の文字でやはり「倅」と書かれた揃いのTシャツ姿。しかも、B4サイズほどの紙に「継がなくてごめんなさい」「嫁ぐなら農家」と手書きの張り紙を近くの壁に貼り付けている。
小さなスペースだが、ニンジンやキャベツなどの野菜や果物にコメ、干し芋や切干大根などの加工食品を所せましと並べ、楽しげな声が響き渡る。
「いらっしゃいませ。僕の父親の作ったキャベツでーす! 甘みがあっておいしいですよー」「岩手の実家のリンゴでーす。ぜひ召し上がってみて下さーい!」
吉野は妻と2人で顔を見合わせた。
「何なんだろう、この人たち」──。そう思って立ち止まったのが、農家を継がずに東京で働く息子・娘たちのプロジェクト「 [ (倅)セガレ ]」と吉野との出会いだった。
*** 農家は継がなかったけれど、親孝行したい ***
「(倅)セガレ」が発足したのは2007年秋。都内で開かれた農業をテーマにしたビジネス講座で、当時20代後半だった渡沢農(山形県出身)、児玉光史(長野県出身)、名古屋敦(兵庫県出身)が偶然出会って始まった。
親はそれぞれ農業を営んでいるが、息子である自分たちは東京に出て農業ではない仕事に就いている。父や母の仕事には誇りを持っているし、何かの形で親孝行のようなことができればと考えた。
実家に戻って農業を継ぐ決断をした青年社長 (2/3)
その「親孝行のようなこと」の1つが、故郷で親の作った自慢の農産物を、子どもである自分たちの手で直接東京の人々に販売しよう、ということだった。2カ月に1度程度、都内・表参道や自由が丘などで開く青空市「セガレの店」。
常設しているわけではなく「(倅)セガレ」メンバーが実家から父母の作った農産物を開催日に合わせて持ち寄る。1坪あるか無いか程度のスペースを借りての青空市なので、大量販売はできない。少量・多品種、普通の宅配便で送ってもらうのでコストは高くつく。
決して利益追求を目的にしてはいない。しかし自分たちの親が丹精込めて作った野菜や果物を東京の街を歩く人に直接届け、味わってもらうことで、産地と消費者との距離が縮まる。農業に真剣に取り組む親と、それを食べる人を結ぶ役割をセガレのメンバーが果たすのだ。
野菜や果物を介し、親の奮闘ぶりやふるさとの農業を知ってもらうことができる。「干し柿にクリームチーズを載せると、ワインにもピッタリのオシャレなおつまみに」──など、産地の人間だからこそ知るおいしい食べ方をの店先でお客さんに直接伝授すると喜ばれる。
逆に消費者の声を聞いて、作り手である親に直接届けられる。何よりも、セガレのメンバーにとっては、農業を継がずに都会に出て別の仕事をしている、少々後ろめたい気持ちが軽くなる。
そんなセガレたちの活動に、吉野は共鳴した。
吉野自身も山形県新庄市のコメ農家の一人息子。祖父からは「農業を継いでほしい」と望まれてはいたものの、両親からはそんな言葉も聞かなかったこともあり、高校卒業後は東京のデザイン専門学校に進む。
専門学校を卒業し20歳で就職したのは、アダルトビデオを中心とする映像製作会社「ソフト・オン・デマンド」の関連会社で、映像編集、パッケージデザイン、雑誌編集などを手掛ける「ハムレット(現・SODアートワークス)」。
デザイン専門学校時代、学校主催コンテストでは1位、出される課題はA評価ばかりだった吉野は入社後もその実力を発揮。デザイナー兼アートディレクターとして活躍する。
実家に戻って農業を継ぐ決断をした青年社長 (3/3)
当時、ソフト・オン・デマンドは、日本テレビ系列の「マネーの虎」への出演で有名になった高橋がなりが代表を務めていた。高橋の吉野に対する信頼は厚く、次々と仕事を任され、2008年4月にはSODアートワークス代表取締役社長に抜擢された。
「25歳ぐらいの頃から『新庄には、いつ帰ろう』と考えるようになった」と吉野は振り返る。デザインの仕事は順調だ。社内外の人とのやり取りも楽しい。しかし、いずれは新庄に戻りたい、でもいつ戻ろうか――。
セガレの活動で青空市に立ち、時折開かれる「セガレカイギ」で、ふるさとと東京とを結ぶ「田植え体験ツアー」「芋掘りツアー」などの企画立案、実施に立ち会ったり携わったりしているうちに、これまで東京で仕事としてやってきたことを、新庄の農業の現場と外とを結ぶ活動として活かすことができるのではないかと考えるようになった。
*** セガレ、実家に帰る ***
「山形に戻ろう」
同じ山形県内・尾花沢市のスイカ農家に生まれた妻も賛成してくれた。さまざまなビジネスチャンスを与え、育ててくれた高橋にも「農業なら許す」、とSODアートワークス社長を辞めることを許してもらった。
高橋は2005年にソフト・オン・デマンド社長を辞任、農業に身を転じている。現在は、生産から販売までを手掛ける「国立ファーム」の社長だ。同社が運営するこだわり野菜レストラン「農家の台所」は、ここ数年テレビや雑誌に頻繁に取り上げられている。吉野は、その国立ファームのコンセプトデザインにも携わった。
吉野は2010年1月いっぱいでSODアートワークスの社長の職を辞し、年度内は山形に戻るための準備を進め、4月から活動の拠点を新庄に移す予定だ。
「まずは農業と農業以外の分野や地域を結ぶための具体的な活動を進めていく。自分自身が農業らしく土と格闘することになるのは、ゴールデンウイークぐらいから」──。そう話す吉野の表情はやる気と明るさに満ちている。
「セガレ」は「故郷に戻って農業を継ごう!」「農業の後継者不足は、農家の長男長女が都会に出てきてしまっているからいけないんだ」などと説教じみたことを声高に叫ぶことはしない。
メンバーが、それぞれに農業との関わり方を模索する緩やかなプロジェクトだったからこそ、吉野は郷里に戻る気持ちになれた。他にも、実家に帰ることを考え始めるセガレメンバーがちらほら出始めているという。
「セガレ」は2010年からは、企業向けに社員教育・社員旅行を兼ねた農業体験ツアーを企画したり、マンションなど集合住宅でも青空市などのマーケットイベントを積極的に実施する計画だ。
継がないセガレたちも、実家と都会を結ぶルートを少しずつ太くするための模索を続ける。
表参道での吉野がセガレと出会ってから1年余。大都会の一角の青空市などという「ひょんなこと」は、しかし、意外に着実に後継者不足が心配される場所に、若者を誘ってくれているのだった。


